2012年11月17日
このたびの自民党の人事の中で、私は参議院政策審議会長に就任しました。政策審議会長は参議院自民党の中では議員会長、幹事長に次ぐナンバースリーのポストであり、政策決定の責任者です。このような重責に任命されたことに身が引き締まる思いです。
党内の政策の調整の実務も行わなければならないため、党本部の政調会長代理も兼務しています。またシャドーキャビネットの官房副長官も兼ねています。役員会、参議院執行部会、総務会、政策会議、シャドー閣議などなど出席しなければならない会議も多く、多忙を極めている状況です。
また安倍総裁、高村副総裁、石破幹事長、甘利政調会長、浜田国対委員長、菅幹事長代行、中曽根参議院議員会長、溝手参議院幹事長、脇参議院国対委員長と参議院政審会長である私の10人で構成される10役会議のメンバーでもあります。この10役会議は党首会談への戦略や特例公債法や所信表明演説への対応といった党の重大方針が決定される極めて重要な会議です。
ねじれ国会の中で、政府の政策や法案への審査の主導権を握るのは参議院の自民党です。参議院政策審議会が法案の生殺与奪を握っている面もあるので、各省庁幹部からの接触も多く、各政策についてきちんとした考え方を整理しておかなくてはなりません。
参議院自民党としての独自の政策研究にも取り組んでいます。たとえば党本部の日本経済再生本部のアジェンダにあまり中小企業のことが含まれていないことに気付き、私の肝いりで参議院政策審議会独自の中小企業問題プロジェクトチームを立ち上げ、「中小企業金融円滑化法」が来年3月に期限切れを迎えることにどう対処するか?「協会けんぽ」の財政難にどのような方策を打つべきか?「厚生年金基金」の解散問題をどう扱うか?などの議論を続けています。
安倍総裁が、長年行動を共にしてきた私を参議院三役の一角に入れた背景には総裁として参議院の動向をつぶさに把握しておきたい狙いもあるはずです。毎日党本部の総裁室に足を運び、安倍総裁に参議院の動向などを逐一報告し、また逆に指示を受けて参議院側に伝達していく役割も果たしています。
非常に多忙な役目ですが、政治家として貴重な経験を積むまたとないチャンスでもあると受け止め、全力で頑張ります。
2012年10月20日
ノーベル賞に輝いた京都大学の山中伸弥教授は、実は私の中学・高校(大阪教育大学附属天王寺)の同級生です。当時は家も徒歩10分程度と近所で、毎日一緒に通学し、日曜日にはお互いの家を行き来して遊んでいました。
中学3年の時は私が生徒会長、彼が副会長で生徒会活動に力を入れました。高校の時は柔道部で一緒でした。同じく同級生である奥さんの知佳さんとは中学時代に英語クラブで一緒でした。卒業後も私が帰省する度に同級生と大阪でよく飲み歩いてきました。
そんな友人の受賞は心から嬉しく、彼と同じ学校で過ごしてきたことを誇りに思っています。彼は中学時代から成績優秀でしたが、ガリ勉タイプでは全くありません。学校に参考書を持って来ることもなく、人前で勉強しているところを見せることもありませんでした。塾にも通いませんでした。昼休みになれば運動場に出て遊び、放課後は日没まで柔道の練習に精を出すという生活でした。
それでいてテストになると学年トップの成績でした。本当に優秀な友人でした。でも堅苦しい人物ではありません。口数は少ないが、良く酒も飲むし、付き合いもいい。高校の修学旅行で夕食会の出し物で、一緒に仮装してラインダンスを踊ったりもした。そんな茶目っ気もあります。
中高時代の日曜日にはよく一緒に遊びました。六甲山へハイキングに行ったり、当時販売されたばかりのテープレコーダーを使って、模擬ニュース番組のようなものを作ったりもしました。
高校生の頃、「地震に備えて、大阪の学校から自宅まで歩いてみよう」と企画し、日曜日に始発の電車で学校まで行き、約30キロの道のりを、途中山越えをし日没までかけて歩き抜きました。
国会議員になってからは彼の研究を陰ながら予算確保などで支援してきました。奈良先端技術大で助教授だった頃、彼は「1回視察に来てくれよ。国会議員だから学長室に通されるだろう。そこで俺が『おお世耕!』と言って入っていくんだ。すると大学での扱いが変わるかもしれないから」と冗談半分で連絡してきたこともあります。
また首相補佐官をやっていた頃には「資金が足りない。首相に直訴して予算を取ってくれ」と悲痛な陳情を受けたこともありました。そんな付き合いをしてきた友人のノーベル賞受賞。発表日の夜は同級生5人で思い出話をしながら深夜まで飲みました。
2012年10月16日
10月8日に京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞した。心からお祝いしたい。彼の研究するiPS細胞は、今後難病に苦しむ患者さんの治療等での活用が期待されている。また創薬の面で活用が進めば、臨床試験等が大幅に短縮され、新薬開発のスピードが速くなることも期待できる。今回の受賞を機に一層の研究の進展を期待したい。
実は山中伸弥君は、私の中学・高校(大阪教育大学附属天王寺)の同級生である。
当時は家も徒歩10分程度と近所で、毎日一緒に通学し、日曜日にはお互いの家を行き来して遊んだものだ。
中学3年の時は私が生徒会長、彼が副会長で生徒会活動でともに汗をかいた。
高校の時(彼は中学時代から)は柔道部で一緒に活動もした。同じく同級生である奥さんの知佳さんとは中学時代に英語クラブで一緒だった。
卒業後も私が帰省するたびに、同級生と大阪で共によく飲み歩いたりしてきた。
そんな友人の受賞は心から嬉しく、彼と同じ学校で過ごしてきたことを誇りに思っている。
彼は、中学時代から成績優秀だったが、ガリ勉タイプでは全くなかった。
学校に参考書を持ってくることもなく、人前で勉強しているところを見せることはあまりなかった。塾や予備校にも行っていなかった。昼休みになれば、グランドに出て遊び、放課後は日が暮れるまで柔道の練習に精を出す。練習が終わったら、近所のお好み焼き屋で空腹を満たす。そんなタイプの生活だった。
それでいて、テストになると学年トップの成績をたたき出す。家に帰ってから黙々と勉強していたのだろう。本当に優秀な友人であった。でも堅苦しいところはない。
口数は少ないが、良く酒も飲むし、付き合いもいい。高校の修学旅行で夕食会の出し物で、一緒に仮装してラインダンスを踊ったりもした。そんな茶目っ気もある。 中高時代の日曜日にはよく一緒に遊んだ。当時はテレビゲームなどないから、自転車で近所を徘徊したり、六甲山へハイキングに行ったりした。当時発売されたばかりのテープレコーダーを使って、模擬ニュース番組のようなものを作ったりもした。 高校生の頃、「地震に備えて、大阪の学校から自宅まで歩いてみよう」と企画し、もう一人近所に住んでいた浅田君(現・日本銀行システム技術担当参事役)と3人で日曜日に始発の電車で学校まで行き、約30キロの道のりを、途中山越えをしながら、日没までかけて歩き抜いた。
それ以来長距離ウォークにはまって、京都―奈良間など、目標を決めて一緒に歩いた。
国会議員になってからは、彼の研究を陰ながら予算確保などで支援してきた。
彼は最初から恵まれた研究環境にあったわけではなかった。まだ奈良先端技術大で助教授だったころ、彼は「1回視察に来てくれよ。国会議員だから学長室に通されるだろう。そこで俺が『おお世耕!』と言って入っていくんだ。そうすると大学での扱いが変わるかもしれないから」などと冗談半分で言ってきたりした。
また首相補佐官をやっていたころには「金が足りない。首相に直訴して予算を取ってくれ」と悲痛な陳情を受けたこともあった。
そんな付き合いをしてきた友人のノーベル賞受賞。発表日の夜は同級生5人で思い出話をしながら深夜まで飲んだ。
2012年09月15日
9月14日告示、26日投票の自民党総裁選挙が注目を集めています。実質的に次期総理大臣を決める選挙ということになることが原因でしょう。谷垣禎一総裁は立候補を断念したものの、10日現在、石原伸晃幹事長、石破茂前政調会長、町村信孝元官房長官らが名乗りを上げ、混戦模様になっています。私は出馬への強い意欲を示している安倍晋三元総理の事務局の一員を務めています。このコラムで特定の総裁候補の応援を書くわけにはいかないので、今回は総裁選の舞台裏をお話ししましょう。
私は、2001年と03年の小泉純一郎元総理、06年の安倍元総理、07年の福田康夫元総理の総裁選でそれぞれ事務局に詰め、野党転落直後の09年総裁選で若手の河野太郎議員を担いだ際には選対の中心を務めました。私は自民党議員の中では総裁選実務に最も精通している一人かも知れません。
総裁選事務局の重要な仕事はまず推薦人集めです。総裁選に立候補するには20人の推薦人が必要で、現在党所属国会議員は200人しかいませんから、今回のように4~5人が名乗りを上げる状況になると、推薦人の争奪戦になって大変です。推薦人集めと同時に進めるのが候補者の政策作りです。候補者と入念に打ち合わせながら、骨格を組み立て、それをパンフレット等の形に作り上げていきます。
そして候補者に出馬表明会見をしてもらわなくてはなりません。06年の安倍総裁選では私が会見のプロデュースを行い、パワーポイントを用いた斬新な出馬表明になりました。告示になると、党本部主催の立会演説会が各地で開催されます。人材豊富な自民党をアピールする絶好の機会です。一方で各陣営は党員に電話作戦等で声がけを行い、地域の有力者には候補者が直接電話をして支持要請します。また国会議員票の票読みも入念に行われます。今は携帯電話がありますから、態度未定の議員に手分けして電話して説得を試みます。
こういう作業は党本部に設けられた各陣営の選挙対策本部で行われます。選対本部には毎日多数の議員と秘書団が詰め電話をかけたり、打ち合わせをしたり、活発に動きます。そしてやがて投票日を迎えます。総裁選の期間が、自民党のもっとも活気ある時期かもしれません。
2012年08月18日
県内経済の冷え込みは厳しく、政治の重要課題は雇用と所得を創造、地域経済を活性化することです。
「私は予算を取ってきました」とアピールする議員がいますが、「国から予算を持ってくる」という中央依存では真の地方経済活性化に繋がりません。予算は個人が「持って来る」ようなものではなく、各種経緯があって決まるもので、個人の手柄のように粉飾して顕示するのは政治家として如何かと思います。
私は和歌山県経済の立て直しのために、色々取り組んできましたが、効果が出ないのが実状です。各市町村も「企業誘致」に取り組んでいるものの十分な成果が上がっていません。
そんな中、私が理事長を務める近畿大学農学部の若手准教授から和歌山で最も苦しい状況にある新宮・東牟婁地域の活性化に関して、面白い構想が提案されました。逆転の発想で「地域から産業を興す」という構想を聞いて、私は直ちにゴーサインを出しました。
新宮港に広大な埋め立て地がありますが、一向に企業は進出していません。それを活用し、輸出型水産冷凍加工施設を作る、というのが今回の構想です。条件不利地の新宮地域ですが、水産加工・輸出という観点に立つと非常に有利な位置にあります。
周辺には養殖業者が多数存在し、大量の魚を集積できます。また太平洋側には国際衛生基準をクリアした最新冷凍加工施設はないため、新施設を作れば、冷凍加工品輸出を独占的に実施することができます。近くには近大水産研があり、輸出先の味覚に合わせた養殖魚の開発も可能。新宮港では大型船を横付けしてそのまま製品の積み卸しができます。新宮港には税関があるので、輸出手続きも容易です。
こういう長所を活かし、加工施設を作り、欧米やアジアに水産加工品を輸出していこうというプロジェクトに近大と新宮市、新宮港埠頭(株)が一体となって取り組んでいくことになりました。将来は加工施設を軸に、他の食品輸出関連施設も集積させ、日本の食品輸出の中心地にしていきたいと夢を膨らませています。
大企業に進出してもらうのではなく、地域特性を生かした産業を創り上げていくというこの取り組みが、苦境に喘ぐ他の県内市町村のヒントになればと思います。