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【公式】世耕 弘成【和歌山から日本を再起動!!】
2011年11月01日
衆議院 および 参議院 の 自民 ・公明両党の国会対策委員長と委員長代理、議院運営委員会の筆頭理事が出席して国会内で「自公国対」が開かれ、予算委員会の審議日程や第3次補正予算案の取り扱いなど今後の国会対応について協議した。衆議院の予算委員会は11月7日から10日までの4日間の日程で開催され、第3次補正予算案の審議がはじまる予定。
2011年10月20日
10月20日から12月9日までの51日間の臨時国会の召集を受けて、今後の国会対応を協議するため野党の国対委員長会談が開催され、 自民党 の国対委員長代理として常任委員会や特別委員会の審議日程などについて意見を交わした。国会は10月28日に衆参両院の本会議で総理の所信表明演説が行われ、31日から各党の代表質問が行われる見通し。
2011年10月15日
9月28日に参院予算委員会でTV中継入り質疑に立ちました。参院自民として野田内閣に初めて対峙する場であり、緊張感を持って臨みました。
私のテーマは、3次補正へ向けての与野党協議、台風12号への初動対応、沖縄での保守系公民教科書の採択問題などでしたが、特に台風12号被災地の思いを代弁する質問に注力しました。
台風が異常な長雨を呼び、土砂災害や水害が高い確率で発生すると予想されていた8月30日から9月2日にかけて、野田総理は首班指名されていたものの、組閣が行われず、菅内閣が職務執行内閣として実務にあたる極めて中途半端な状況でした。大規模災害が想定される際に重要な関係省庁連絡会議も立ち上げられていませんでした。
野田内閣は9月2日夕方にようやく組閣され、仕事をスタートさせますが、台風と大雨による被害が一段と深刻化していく状況であるにもかかわらず、内閣発足の喜びに酔っていたのでしょうか、迅速な対応は行われず、災害対策基本法が定める「非常災害対策本部」が内閣に設置されたのは内閣発足の翌々日の夜のことでした。
その頃には紀伊半島では多数の人命が失われ、多数の集落が孤立状態でした。明らかに野田総理が党内バランスに配慮した人事を行うために組閣に時間をかけたことと、内閣発足後も迅速な危機管理組織の立ち上げが行われなかったことが対応の遅れにつながったと言わざるを得ません。
質疑の中では、深刻な過疎地域である紀伊半島の被災地の復興には、国が全面に出て東日本大震災並の対応を行うべきであること。今回の台風で国道168号と311号は災害に脆弱であることが判明し、東南海・南海地震の際には国道42号も寸断されるという想定の中で、大地震対策という観点からの高速道路を含む紀伊半島の道路網整備・強化が重要であることも指摘させてもらいました。
実は質疑の日の朝にかねて療養中の父が危篤状態となり、万一の場合最期を看取ることは出来ないとの覚悟で質問に立っておりました。父は何とか持ちこたえてくれ、私はこの日の国会終了後、大阪の近大病院に駆けつけて翌日早朝に逝去した父を見送ることが出来ました。麻酔により意識不明でしたが病室で私の質疑の放送を流していてくれたそうです。まさに私の予算委員会の質疑が終わるのを待っていてくれたかのように感じています。