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山中伸弥京大教授に総理大臣感謝状授与

2013年01月28日



2012年に 人口多能性幹細胞(iPS細胞) に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞された 山中伸弥 京都大学 iPS細胞研究所教授に対して、首相官邸内の小ホールで安倍晋三総理大臣から 感謝状が授与、記念品が贈呈 された。山中教授は日本人で2人目のノーベル生理学・医学賞の受賞者で、大阪教育大学附属天王寺中学・高校時代の 同級生

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ニュース和歌山「国政直送便」/わが友 山中伸弥教授

2012年10月20日

わが友 山中伸弥教授


ノーベル賞に輝いた京都大学の山中伸弥教授は、実は私の中学・高校(大阪教育大学附属天王寺)の同級生です。当時は家も徒歩10分程度と近所で、毎日一緒に通学し、日曜日にはお互いの家を行き来して遊んでいました。

中学3年の時は私が生徒会長、彼が副会長で生徒会活動に力を入れました。高校の時は柔道部で一緒でした。同じく同級生である奥さんの知佳さんとは中学時代に英語クラブで一緒でした。卒業後も私が帰省する度に同級生と大阪でよく飲み歩いてきました。

そんな友人の受賞は心から嬉しく、彼と同じ学校で過ごしてきたことを誇りに思っています。彼は中学時代から成績優秀でしたが、ガリ勉タイプでは全くありません。学校に参考書を持って来ることもなく、人前で勉強しているところを見せることもありませんでした。塾にも通いませんでした。昼休みになれば運動場に出て遊び、放課後は日没まで柔道の練習に精を出すという生活でした。

それでいてテストになると学年トップの成績でした。本当に優秀な友人でした。でも堅苦しい人物ではありません。口数は少ないが、良く酒も飲むし、付き合いもいい。高校の修学旅行で夕食会の出し物で、一緒に仮装してラインダンスを踊ったりもした。そんな茶目っ気もあります。

中高時代の日曜日にはよく一緒に遊びました。六甲山へハイキングに行ったり、当時販売されたばかりのテープレコーダーを使って、模擬ニュース番組のようなものを作ったりもしました。

高校生の頃、「地震に備えて、大阪の学校から自宅まで歩いてみよう」と企画し、日曜日に始発の電車で学校まで行き、約30キロの道のりを、途中山越えをし日没までかけて歩き抜きました。


国会議員になってからは彼の研究を陰ながら予算確保などで支援してきました。奈良先端技術大で助教授だった頃、彼は「1回視察に来てくれよ。国会議員だから学長室に通されるだろう。そこで俺が『おお世耕!』と言って入っていくんだ。すると大学での扱いが変わるかもしれないから」と冗談半分で連絡してきたこともあります。

また首相補佐官をやっていた頃には「資金が足りない。首相に直訴して予算を取ってくれ」と悲痛な陳情を受けたこともありました。そんな付き合いをしてきた友人のノーベル賞受賞。発表日の夜は同級生5人で思い出話をしながら深夜まで飲みました。

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和歌山新報「がんばってます」/山中伸弥さんの思い出

2012年10月16日

山中伸弥さんの思い出

―同級生のノーベル賞を祝福―

10月8日に京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞した。心からお祝いしたい。彼の研究するiPS細胞は、今後難病に苦しむ患者さんの治療等での活用が期待されている。また創薬の面で活用が進めば、臨床試験等が大幅に短縮され、新薬開発のスピードが速くなることも期待できる。今回の受賞を機に一層の研究の進展を期待したい。

実は山中伸弥君は、私の中学・高校(大阪教育大学附属天王寺)の同級生である。

当時は家も徒歩10分程度と近所で、毎日一緒に通学し、日曜日にはお互いの家を行き来して遊んだものだ。
中学3年の時は私が生徒会長、彼が副会長で生徒会活動でともに汗をかいた。

高校の時(彼は中学時代から)は柔道部で一緒に活動もした。同じく同級生である奥さんの知佳さんとは中学時代に英語クラブで一緒だった。
卒業後も私が帰省するたびに、同級生と大阪で共によく飲み歩いたりしてきた。

そんな友人の受賞は心から嬉しく、彼と同じ学校で過ごしてきたことを誇りに思っている。

彼は、中学時代から成績優秀だったが、ガリ勉タイプでは全くなかった。

学校に参考書を持ってくることもなく、人前で勉強しているところを見せることはあまりなかった。塾や予備校にも行っていなかった。昼休みになれば、グランドに出て遊び、放課後は日が暮れるまで柔道の練習に精を出す。練習が終わったら、近所のお好み焼き屋で空腹を満たす。そんなタイプの生活だった。

それでいて、テストになると学年トップの成績をたたき出す。家に帰ってから黙々と勉強していたのだろう。本当に優秀な友人であった。でも堅苦しいところはない。
 

口数は少ないが、良く酒も飲むし、付き合いもいい。高校の修学旅行で夕食会の出し物で、一緒に仮装してラインダンスを踊ったりもした。そんな茶目っ気もある。 中高時代の日曜日にはよく一緒に遊んだ。当時はテレビゲームなどないから、自転車で近所を徘徊したり、六甲山へハイキングに行ったりした。当時発売されたばかりのテープレコーダーを使って、模擬ニュース番組のようなものを作ったりもした。 高校生の頃、「地震に備えて、大阪の学校から自宅まで歩いてみよう」と企画し、もう一人近所に住んでいた浅田君(現・日本銀行システム技術担当参事役)と3人で日曜日に始発の電車で学校まで行き、約30キロの道のりを、途中山越えをしながら、日没までかけて歩き抜いた。

それ以来長距離ウォークにはまって、京都―奈良間など、目標を決めて一緒に歩いた。

国会議員になってからは、彼の研究を陰ながら予算確保などで支援してきた。

彼は最初から恵まれた研究環境にあったわけではなかった。まだ奈良先端技術大で助教授だったころ、彼は「1回視察に来てくれよ。国会議員だから学長室に通されるだろう。そこで俺が『おお世耕!』と言って入っていくんだ。そうすると大学での扱いが変わるかもしれないから」などと冗談半分で言ってきたりした。

また首相補佐官をやっていたころには「金が足りない。首相に直訴して予算を取ってくれ」と悲痛な陳情を受けたこともあった。

そんな付き合いをしてきた友人のノーベル賞受賞。発表日の夜は同級生5人で思い出話をしながら深夜まで飲んだ。

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ニュース和歌山「国政直送便」/故西岡武夫参院議長を悼む

2011年11月19日

故西岡武夫参院議長を悼む


去る5日に西岡武夫参院議長が逝去されました。心からお悔やみ申し上げます。
議長とは平成19年から2年間、議院運営員会でお付き合いさせていただきました。当時の参議院は自民が少数与党、野党民主が過半数を押さえていて、今より厳しい「ねじれ」状態でした。西岡さんは議院運営委員長、私は与党筆頭理事という立場で、本格的ねじれ国会の中でお互いに知恵を出し合いながら、ある時は激しく対立する場面もありました。

しかし、非公式な場では、私が1歳にもなっていない昭和38年初当選の大先輩としてご指導いただきました。幾多の修羅場を乗り切ってこられた西岡さんの言葉には重みがあり、特に若い頃から自民党改革に挑戦してこられた経験は、今の自民党改革に苦闘する私にとっても参考になる部分がありました。

当時の議運理事は若手議員が多く、党派を超えて西岡さんを交えてよく飲みに行きました。酒を飲めない西岡さんが若手の議論をにこやかに聞いておられたのが強く印象に残っています。

議運を離れた後も交流は続き、私が委員会で質問に立った直後に「今の質問良かったよ」と携帯に電話をいただいた事も何度かありました。


最後にお会いしたのは8月末のことでした。「至急会いたい」とのメッセージをもらい、議長室に駆け付けたところ、「SIMロックフリーのiPad2を使いたいから教えてくれ」との用件でした。実は西岡さんは電子機器に関心が強く、過去スマートフォンに関し何度かお手伝いしたことがありました。私は「海外から日本の基準に合致したものを取り寄せて、設定しましょう」と請け負いました。

その後、雑談となり、西岡さんは「代表選は本気で出馬する計画だった。世耕さん達後輩に先鞭を付けることが出来るでしょう」とニヤッと話されました。「参議院から首相を狙うという気概を持て」という激励でした。

最後に「復興で政府の動きが遅い。議員立法でやっていこう。まともな政治家が政党を超えて連携して、復興のための立法を行う仕組みを作るから、その時は参加してくれ」と言われました。復興への熱い思いがひしひしと伝わってきました。

9月中にiPadは届きましたが、その後、議長は体調不良で国会に登院されることも少なくなり、お渡しするチャンスを逃したのが心残りです。

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